佐藤未央子『谷崎潤一郎と映画の存在論』(水声社、2022年)書評

 谷崎潤一郎の研究に関して言えば、作品論・作家論はもとより、近年では谷崎の探偵小説に注目したものも出現してきている。本学で助教をお勤めになっている佐藤未央子先生の著書である本書は、そのような研究状況下で、大正期や映画、谷崎潤一郎の文学、といった事柄に対しての斬新な論点を提供してくれる。

 佐藤先生は本書の成果を以て令和4年度(第73回)における芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論等部門)を受賞されており、既に『日本文學誌要』第107号法政大学国文学会、2023年)において、清水智史氏が本書の精密な書評を行っている。ここでは本書が取り扱う複数の作品・モチーフから、今後の谷崎文学や映画論における新たな可能性を示唆するものを取り上げたい。

 まず第一章「〈シネマニア〉谷崎の誕生」では、映画という新興の芸術が谷崎に与えた影響の重要性が力説される。そして無声映画における活動写真弁士の役割に関する研究は近年その存在感を増してきているが、その第一人者ともいえる徳川夢声が、同時代人たる谷崎の映画に心惹かれる背景を性的倒錯に見出している点は新鮮であろう。これは続く第二章「「人面疽」の〈純映画劇〉的可能性――映画化計画をめぐって」において、谷崎の女性に対する認識が、女性の身体的な解放という内容を包含していた点や、彼が見出した渡辺温がその短い生涯に短篇作品のみを発表していったことと、重ね合わせて論じることが可能だ。即ち、谷崎潤一郎が映画と濃厚に関わった時代は、無声映画の時代であり、活動写真弁士や楽隊が音声を添え、その上映時間も比較的短いものであった時期なのである。

 第三章「「月の囁き」考――〈映画的文体〉を書く/読む」において、谷崎は映画の一般観衆に対しても、それを単純に享受するのみに留まらない相応の知識を要求したことが言及されている。これもまた、活動写真弁士がその話芸を競い、続き物映画で人を集めたという、浅草六区を中心とした大衆娯楽の〈王者〉たる映画のあり方とは、大幅に異なる意識といえよう。映画と浅草に関して言えば、第四章「肉塊」と映画の存在論――水族館―人魚幻想、〈見交わし〉の惑溺」で提示される映画館と水族館のアナロジーからは、カジノ・フォーリーが浅草六区の水族館から始まったことが想起される。共に薄暗く、観客と対象物(映画のスクリーン・海洋生物)との間に一方向的な視線が存在する、といった共通性を差し引いても、新興のエンターテインメントとしての両者はすぐれてモダンであり、大衆の欲望を惹起したことは想像に難くない。このように谷崎の意識と、谷崎が関与した映画そのものとの間には、微妙な懸隔があったことが窺える内容だ。

 少し位相が変わり、第五章「「青塚氏の話」のドラマツルギー――映画製作/受容をめぐる欲望のありか」では、男性の視線の対象に女性が存在するというジェンダー間格差の状況が論じられているが、これは前章の内容を受けての記述であると同時に、ここから映画「メトロポリス」における偽マリアがヨシワラで富裕層の男性を翻弄する有様こそ、当時の映画にある種普遍的な描写であることが窺える。
最後に、今後の谷崎文学研究における方向性を示唆する重要な章が、第七章「記憶のフィルムと羊皮紙――「アヹ・マリア」と映画語」である。本章ではジュネットの〈羊皮紙(パランプセスト)〉観念を援用し、更には実際の映画館上映パンフレットなども引用して、谷崎の作品そのものと作品内で言及される映画の有機的結合を論じる。谷崎文学は発表時期により細分化され、往々にしてある時期の作品と別の時期のそれとが独立して論じられているが、筆者は谷崎潤一郎という作家を全人的に把握せんと構想し、その方法として映画に傾斜した時期の谷崎を焦点化しているといえよう。

 ここまで縷々述べた如く、本書は谷崎潤一郎を総体的に捉える上では最早必須と呼べる程、基本的かつ重要な論点を包含しており、本書を読むことで、初期と戦時中以降に挟まれた〈映画熱〉の中にあった谷崎を、一過性の現象に翻弄されていたのでは無くある種の必然の中にいたのだと認識させてくれる。

杉本裕樹(大学院博士課程3年生)

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