ことばを追い求めるということ――山﨑修平『テーゲベックのきれいな香り』を読んで(鈴木華織)

 想像を絶する出来事が起こった時、果たして自分はその事象を満足できることばにして表すことは可能なのか。そして、その〈満足できることば〉とはいかなるものなのか。それが、詩人である山﨑修平氏の初めての小説『テーゲベックのきれいな香り』(河出書房新社)を読んでいる時に頭にあったことだ。

 忌憚なく申せば、作品は複雑であり、起承転結がある進み方とは距離を置いている。主人公で詩人の「わたし」が書こうとする、「それは詩でもない、短歌でもない、散文でもエッセイでもない、何か」という「小説」がまさしくこの作品の形容にふさわしい。

 作中の中心となるのは、2028年に起こった、名付け難く「あれ」と呼ぶしかない災害である。「わたし」は、あらゆることばが無力となる「あれ」を経験して詩の読み書きができなくなるが、神戸にある祖母の家で食べるテーゲベックの香りから、意識とも無意識とも判然としない記憶の流れがとめどなく流れ出る……、とすると誰もがプルーストの『失われた時を求めて』を想起するだろう。この作品もよどみなく「支離滅裂で脈絡のない、人間の思考」の世界が広がる。そして読み手は、その世界からあふれ出ることばの洪水に身を置くことになるのだが、その洪水は「あれ」を書き語ること、ひいては〈私〉という個人について書き語る行為の根本にある、ことばそのものをむき出しにして見つめ直すという詩人の〈挑戦〉としてあると私は感じた。

 そして、「わたし」とは別の主人公ともいうべき存在として東京の存在があり、作中には数多の東京の地名が登場する。漱石が「どこまで行っても東京がなくならない」とし、鷗外も「普請中」とした東京は、110年以上経ってもスクラップアンドビルドを絶え間なく繰り返えし増殖を続けている。そして、その増殖する地はさまざまなルーツの人たちが集う「寄せ集め」の街であり、「寄せ集めの街のことば」が思考され、飛び交い、「幾人もの記憶、整合性の取れない会話、文章」を作っている。

 私が先に〈複雑〉とした作品の展開も、東京で膨大な数がやり取りされる意識や会話のように「寄せ集め」的であるが、居心地悪くはない。なぜならば、その「寄せ集め」には隙間があり、その隙間は私たちの意識や会話そのものであるからだ。そして、その隙間は作中における「わたし」が「それなのに(整合性が無いのに―引用者)、どうして見えてしまう瞬間があるのだろう」といぶかる「瞬間」のことであり、この「瞬間」こそ「わたし」が貫く「書かないものを書く。/書かないことで書く。」ことを指すのではないかと思われる。「瞬間」自体はことばにはできない。だが、「瞬間」を「瞬間」たらしめるためのことばはある。それに気付くか気付かないか、ことばへの希求がこの小説には込められている。

(大学院博士課程 鈴木華織)

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