本書は、二〇一二年に亡くなられた、戦後日本を代表する文学者のひとりである吉本隆明氏の最初期の詩から一九九八年の『アフリカ的段階について』までの文業を批評した書物です。
その内容について少しく述べるならば、序論では「エリアンの手記と詩」、『固有時との対話』、『転位のための十篇』といった詩作を取りあげ、吉本隆明氏の文学的出発点を考察しています。本論Ⅰでは「マチウ書試論」、『高村光太郎』から吉本隆明氏の批評における主眼となる考えを提示し、本論Ⅱではそれをうけ、その思考の理論的な確立をこころみた著作として『言語にとって美とはなにか』、『共同幻想論』、『心的現象論序説』を論じることによって、吉本隆明氏の「思想」の深化をあきらかにしています。そして、本論Ⅲでは『空虚としての主題』、『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』といった著作をとおし、時代にたいしてするどい意識をむけながら同伴者でありつづけた吉本隆明氏のすがたを書きながら、その最後の理論的な著作としての『アフリカ的段階について』の読解と、そこからの展望が述べられています。
さて、それでは本書が吉本隆明氏の文学世界を手軽に一望、理解することができる手引書のようなものであるかというと、それはイエスでありノーでもあります。
たしかに、本書をひもとくことによって、吉本隆明氏の文業を概観することはできますし、それを起点にして、吉本隆明氏の文学世界に踏みこんでいくかたもおられるでしょう。しかし、そこで提示されているのは、あくまでも田中和生先生の読みであることは留意せねばなりません。
本書を一読し気づくのは、本書では徹頭徹尾、あまたあるはずの先行研究によらず、ある文章を徹底的に自分自身で読みこみ、自身の内面において考えぬくことで、その文学世界を理解しようとする態度です。
それは、本書の「後記――結論」で、田中和生先生ご自身が「現在までのところ文芸評論家としてもっとも影響を受けているのは、おそらく吉本隆明からである」と述べ、吉本隆明氏の流儀が「自分が打ち込んで読んだ文学者については「一冊の本を書かなければ収まりがつかない」「本格的な返礼という意味で、書かなきゃいけない」という流儀」であり、「吉本さんの流儀で、吉本隆明の文学について論じたことになる」とし、「自分が打ち込んで読んだ文学者についての「本格的な返礼」としての「一冊の本」は、あらかじめ結論が決まっている。それはその文学者の文章を、わたしたちは読みつづけるべきである。」としていることからもあきらかです。
ある対象とした文学者にたいして、理論や他人の言説の引用でのみ理解しようとするのでなく、その書物をくりかえし読みつづけ、自分自身の思考と言葉で向きあいつづけ、その文学的世界の拡大を目指しつづけること。
そのような、文学批評におけるもっとも根源的ともいえるすがたをこの書物は提示しています。
(修士課程二年、藤村ゼミ、関口雄士)
『吉本隆明』(田中和生著)が刊行されました
2014年7月29日 | Author: nichibunka