本書のタイトル「なぜ文芸時評は終わるのか」にある「文芸時評」は、文芸時評そのものではなく「制度としての文芸時評」を指す。
本書の「はじめに」では文芸時評の歴史が紐解かれている。文芸時評は明治後期に自然主義作家らによって月刊誌等で成立し、小林秀雄が「創作家としての文芸評論家」として初めて文芸時評を担当する。やがて、新聞においてひとりの文芸評論家が継続的に文芸時評を担当するスタイルが誕生し、以降文学作品と文芸時評はお互いに影響を与えながら新聞で連載を重ねる「制度」として確立した。しかし、近年は新聞の発行部数が大きく減少し、文芸時評も社内の記者や不特定の論者が短期間で担当を交代するといった「制度」の変化を遂げている。加えて、文学作品の指向も大きく変化をした。隆盛した近代文学や戦後文学的思想は影を潜め、出版社は出版不況から作家および作品に売上に繋がる「興行的意味」を求めるようになる。
本書に収められた文芸時評は、このような状況下にあった2007年から始まる。著者はこの時期を文芸時評という「制度」の「崩壊期に入っていた」とし、担当を終えた2022年には「制度」は「過去のもの」になったとして、間もなく「制度」が「終わる」と告げている。
「制度」を確立させた平野謙は、文芸時評について大意ではあるが〈批評家たちが「否定的言辞」や「悪口」を言うもの〉(『文藝時評』)と述べた。この平野の見解を著者は否定することなく、その言葉の裏には「それだけ文学作品についての理想が強く共有されていたからにほかならない」という意志があったとしている。
確かに〈批評〉と〈批判〉は履き違えしやすい。なぜならば、時に辛辣な「否定的言辞」が紙面に躍るからである。本書での例をあげれば、東日本大震災後の2011年12月の文芸時評では「(書かれた作品が―引用者)震災や津波そのものより軽く、原発事故よりリアリティを欠いて」「文学が現実に負けている」とし「軽薄」と断じている。また、2017年6月の文芸時評では、ある作品に対して「ここに欠けているのは、作品の言葉が読者に審判されるという緊張感である。高い文学的な評価を得てきた作家による作品の書き方として、厳しく批判されるべきだ」という評価を下している。しかし、これらを単に「否定的言辞」としてよいのだろうか。私は、ここに著者が平野へ抱いたものと同様の〈文学作品に対する理想の追求〉を感じた。
乱暴を承知でいえば、否定すべきものには無視をする方法もある。だが、毎月数多くの新しい文学作品が世に出る中で、著者が俎上にあげた作品に手厳しい言葉を投げることは、何かしら言及する必要があると判断したからに違いない。したがって、その言葉の裏側にあるものを文学作品の書き手も、文芸時評の読者もくみ取る必要がある。そうすることで、文学は理想により近づくことが可能になるのだ。
著者は「あとがき」で、新しい文芸時評の「制度」とこれから文芸時評を担う書き手に期待を寄せている。それに呼応するかのように、WEB上で連載されるなどこれまでとは違った「制度」のもとで文芸時評は続いている。そして、本書に収められた文芸時評が掲載された2007年から2022年は、前出した東日本大震災と福島第一原発事故や、COVID-19の猛威による世界的なパンデミックといった大きな出来事に加えて、政治不信や経済活動の停滞および失速、それらに伴う経済的格差や思想による国民の分断の発生といった閉塞感を感じる期間でもあった。しかし、そのような中でも小説投稿サイトや文芸誌の新人賞への応募の増加、文学フリマの盛況といった現実は、文学作品で何かを表現したい書き手が数多く存在していることに他ならない。
このような現状が文学をどこに導くのかは分からないが、本書に収められた文芸時評とそこに潜む理想の追求は、これからの文学の行方を知る手掛かりとなるものと思われる。
(鈴木華織 2023年度博士後期課程満期退学)
田中和生先生(日本文学科教授)の新刊、なぜ文芸時評は終わるのか:アーツアンドクラフツ (webarts.co.jp)を、ぜひお手にとってご覧ください。