『日本文學誌要』 第108号が刊行されました

『日本文學誌要』 (法政大学国文学会) 第108号が刊行されました

目次は下記の通りです。

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《論文》

「子別れ」論――熊さん八つぁんたちのキャリアデザイン―― 中丸宣明

『伊勢物語』「また逢坂の関は越えなむ」は男の意志か 大野豊彦

石川淳「いすかのはし」論――〈食いちがい〉からの展開―― 関口雄士

フィクションから見える管野須賀子表象――瀬戸内晴美『遠い声』を中心に―― 稲本貴美子

《論文題目》

大学院人文科学研究科日本文学専攻 博士論文・修士論文 題目一覧 二○二二年度

文学部日本文学科 卒業論文題目一覧 二○二二年度

通信教育部文学部日本文学科 卒業論文題目一覧 二○二二年度

《法政大学国文学会会則》

《法政大学国文学会教員のつどい申し合わせ》

《『日本文學誌要』投稿要領》

《編集後記》

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なお、『日本文學誌要』第109号は、2024年3月の刊行を予定しております。

 

 

井口可奈さんが第11回現代短歌社賞を受賞!

日本文学科卒業生の井口可奈さんが、第11回現代短歌社賞を受賞しました。おめでとうございます。

本賞は、まだ個人歌集を出版したことがない若手の第一歌集上梓を後押しすべく、現代短歌社が2013年に創設したものです。受賞作は出版されることになっていますので、近いうちに皆さまも井口さんの歌集を手に取ってお楽しみ頂けるものと思います。その時はまたこちらのHPにてお知らせ致します。

なお、11月16日に発売予定の「現代短歌」1月号には、選考座談会が掲載されるとのことです。

 

奥野紗世子さんの新作が『文學界』に

「逃げ水は街の血潮」で第124回文學界新人賞を受賞し、その後も精力的に作品を世に送り続けている奥野紗世子さん(法政大学大学院)の新作「享年十九」が、『文學界』11月号に掲載されます。明後日(10月6日)発売とのことですので、秋の夜長のお供に是非どうぞ。

 

新刊書籍の紹介

詩人・文芸評論家として活躍している山﨑修平さん(大学院博士課程)から新刊のお知らせが届きました。『吉田健一に就て』(国書刊行会)では、文芸評論家・翻訳家・小説家・英文学研究者として活躍した吉田健一の偏食と洒脱な「食」についての論考を寄稿し、国語教員向け指導書『探求文学国語』(桐原書店)では、萩原朔太郎、宮沢賢治、中原中也、吉原幸子、穂村弘らの作品解読について担当したとのこと。後者は学校専売品なのでなかなか目にする機会はないかもしれませんが、前者は市販書籍なのでどなたでも入手可能です。

  

 

修了生、大木芙沙子さんの最新作が『小説すばる』(5月号)に掲載

日本文学専攻文芸創作プログラム修了生の消息をお知らせします。

2015年に修士号を取得して修了された大木芙沙子さんが『閑窓 vol.5』に寄稿した短編「ふくらはぎ」が、2022年下半期同人雑誌優秀作として『文學界』(2022年12月号)に掲載されました。同誌には、奥野紗世子さんの新作「オーシャンビューの街のやつ」が掲載されたことを、すでに本ブログで紹介しておりましたが、大木さんの「ふくらはぎ」と2人同時に掲載されていたことになります。

大木さんは、その後も2022年12月に短編「二十七番目の月」を Kaguya Planet に発表し、さらには短編「うなぎ」が『文學界』(2023年5月号)に、フラッシュフィクション「トイレットペッパー」が『小説すばる』(2023年5月号)にそれぞれ掲載されるなど、精力的に作品を世に出し続けています。今後ますますの活躍が期待される新人です。

 

2023 年度修士論文中間発表会のお知らせ

人文科学研究科日本文学専攻「修士論文中間発表会」を、下記のとおり対面で実施します。

日時: 2023 年 7 月 26 日(水) 13 時 10 分~
場所: 大学院棟 203 教室(古典、言語)
  : 大学院棟 202 教室(近現代、文芸創作)

修士課程2年生が、研究の中間報告を行う場です。その他の日本文学専攻の院生・研究生・研修生も、万障繰り合わせて参加し、質疑応答に加わって下さい。特に、修士課程1年生は参加が原則となります。

FICオープンセミナー「シンポジウム 詩とはなにか、小説とはなにか」

FICオープンセミナー「シンポジウム 詩とはなにか、小説とはなにか」の開催案内を頂きましたので、こちらにも掲載致します。
 
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1 開催内容
 法政大学国際文化学部では、FICオープンセミナー「シンポジウム 詩とはなにか、小説とはなにか」を開催する運びとなりました。
 私たちは日頃から当然のように文学に触れていますが、改めて考えてみると、よくわからないことばかりです。例えば、「詩」と「小説」は、どう違うのでしょうか? 詩も、小説も、多くの文化に存在することは間違いなさそうです。しかし、その区別はどこまで明確なのでしょうか? また、詩と小説の関係とは、どのようなものなのでしょうか? 両者の関係は、どの文化でも同様なのでしょうか?
今回はデビュー小説である『テーゲベックのきれいな香り』を出版した詩人・山﨑修平氏と、半世紀以上にわたり現代詩を牽引してきた吉増剛造氏の対談を中心に、さまざまな形で詩や小説に向き合っている登壇者たちと共に、この問題について考えてみたいと思います。
 
第一部(14:00〜15:15) トーク・セッション
 
  登壇者(50音順)
    大野ロベルト  翻訳家・法政大学准教授
    瀬戸夏子 歌人・批評家
    渡辺祐真    書評家・シナリオライター
    山﨑修平   詩人・文芸評論家
 
第二部(15:30〜17:00) 特別対談
 
   山﨑修平 × 吉増剛造
 
 
2 開催日時: 2023年5月6日(土)14:00〜17:00
 
3 開催場所: 法政大学 市ヶ谷キャンパス 富士見ゲートG601教室
 
4 参加方法
本イベントは対面方式で開催します。定員は先着順で100名とします。参加ご希望の方は、以下のGoogleフォームから予約してください。法政大学の関係者専用のフォームのため、必ずログインした状態で記入してください。「送信」ボタンを押下後、「ご登録を承りました」と表示されれば完了です。なお、当日は学生証や職員証の提示を求める場合がありますので、ご協力をお願いします。
イベントの模様は、後日オンラインでも視聴可能となる予定です(詳細は関係者のホームページ、SNSなどで告知します)。また、新型コロナウィルスの感染拡大などにより対面実施が困難となった場合には、イベント自体をオンライン開催に切り替える場合があります。その場合には、速やかに周知します。

佐藤未央子『谷崎潤一郎と映画の存在論』(水声社、2022年)書評

 谷崎潤一郎の研究に関して言えば、作品論・作家論はもとより、近年では谷崎の探偵小説に注目したものも出現してきている。本学で助教をお勤めになっている佐藤未央子先生の著書である本書は、そのような研究状況下で、大正期や映画、谷崎潤一郎の文学、といった事柄に対しての斬新な論点を提供してくれる。

 佐藤先生は本書の成果を以て令和4年度(第73回)における芸術選奨文部科学大臣新人賞(評論等部門)を受賞されており、既に『日本文學誌要』第107号法政大学国文学会、2023年)において、清水智史氏が本書の精密な書評を行っている。ここでは本書が取り扱う複数の作品・モチーフから、今後の谷崎文学や映画論における新たな可能性を示唆するものを取り上げたい。

 まず第一章「〈シネマニア〉谷崎の誕生」では、映画という新興の芸術が谷崎に与えた影響の重要性が力説される。そして無声映画における活動写真弁士の役割に関する研究は近年その存在感を増してきているが、その第一人者ともいえる徳川夢声が、同時代人たる谷崎の映画に心惹かれる背景を性的倒錯に見出している点は新鮮であろう。これは続く第二章「「人面疽」の〈純映画劇〉的可能性――映画化計画をめぐって」において、谷崎の女性に対する認識が、女性の身体的な解放という内容を包含していた点や、彼が見出した渡辺温がその短い生涯に短篇作品のみを発表していったことと、重ね合わせて論じることが可能だ。即ち、谷崎潤一郎が映画と濃厚に関わった時代は、無声映画の時代であり、活動写真弁士や楽隊が音声を添え、その上映時間も比較的短いものであった時期なのである。

 第三章「「月の囁き」考――〈映画的文体〉を書く/読む」において、谷崎は映画の一般観衆に対しても、それを単純に享受するのみに留まらない相応の知識を要求したことが言及されている。これもまた、活動写真弁士がその話芸を競い、続き物映画で人を集めたという、浅草六区を中心とした大衆娯楽の〈王者〉たる映画のあり方とは、大幅に異なる意識といえよう。映画と浅草に関して言えば、第四章「肉塊」と映画の存在論――水族館―人魚幻想、〈見交わし〉の惑溺」で提示される映画館と水族館のアナロジーからは、カジノ・フォーリーが浅草六区の水族館から始まったことが想起される。共に薄暗く、観客と対象物(映画のスクリーン・海洋生物)との間に一方向的な視線が存在する、といった共通性を差し引いても、新興のエンターテインメントとしての両者はすぐれてモダンであり、大衆の欲望を惹起したことは想像に難くない。このように谷崎の意識と、谷崎が関与した映画そのものとの間には、微妙な懸隔があったことが窺える内容だ。

 少し位相が変わり、第五章「「青塚氏の話」のドラマツルギー――映画製作/受容をめぐる欲望のありか」では、男性の視線の対象に女性が存在するというジェンダー間格差の状況が論じられているが、これは前章の内容を受けての記述であると同時に、ここから映画「メトロポリス」における偽マリアがヨシワラで富裕層の男性を翻弄する有様こそ、当時の映画にある種普遍的な描写であることが窺える。
最後に、今後の谷崎文学研究における方向性を示唆する重要な章が、第七章「記憶のフィルムと羊皮紙――「アヹ・マリア」と映画語」である。本章ではジュネットの〈羊皮紙(パランプセスト)〉観念を援用し、更には実際の映画館上映パンフレットなども引用して、谷崎の作品そのものと作品内で言及される映画の有機的結合を論じる。谷崎文学は発表時期により細分化され、往々にしてある時期の作品と別の時期のそれとが独立して論じられているが、筆者は谷崎潤一郎という作家を全人的に把握せんと構想し、その方法として映画に傾斜した時期の谷崎を焦点化しているといえよう。

 ここまで縷々述べた如く、本書は谷崎潤一郎を総体的に捉える上では最早必須と呼べる程、基本的かつ重要な論点を包含しており、本書を読むことで、初期と戦時中以降に挟まれた〈映画熱〉の中にあった谷崎を、一過性の現象に翻弄されていたのでは無くある種の必然の中にいたのだと認識させてくれる。

杉本裕樹(大学院博士課程3年生)